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駒込病院胸部外科の先生方ありがとうございました(文中に登場する先生) |
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主治医森山裕一(もりやま ひろかず)先生は結婚後の幸せ太りという噂、明るく元気でイイ!!慶応大学のラグビー部だったそうで、体格も体育会系。
(2003年6月より宮崎県の病院へ)
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N先生は、日本外科学会等々の指導医 (2003年7月より茨城県の病院へ)
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左はH先生(レジデントなので、その後他科へ)、K先生も慶応大学出身とか。
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2002/08/07
退院
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デジカメで病室のみなさんと写真を撮った後、みなさんに挨拶をして帰宅。とはいえ、廊下で森山先生に会い、退院後の心得など立ち話で聞いているときに、昨日話を聞いた患者さんを見つけて、「あ、すみません」とか言って写真を撮りに行ってしまったらしい。このため、話
は相棒miyaが聞いてくれたのだが、森山先生も「あの元気なら、だいじょうぶでしょう」と言っていたとか。うーん、自分では全然記憶にない。
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2002/08/06
またまた気管支内視鏡検査
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いやな、いやな内視鏡検査をまた受けなければいけない日がやってきた。受けてみるとやはり苦しい。くそっ、チクショー、どうにでもなれ、と検査台に寝ながら、心の中で罵詈雑言。思い切りご乱心して、口の中のファイバーを噛んでいた。「○○さん、噛まないでください」と先生が大声を出している。
そのときは「噛み切ってやる〜ぅ」と思ったが、実際に噛み切ってしまったら(切れるはずはないが)、管が中途半端に呼吸器内にとどまるわけで、そうなると切開手術も……と後から考えて、ゾ〜ッとした(無知な患者のアホな妄想)。
その後(当日だったか、翌日だったか覚えていない)、巡回に来た西村先生から「大変でしたね、苦しかったでしょう」と言われたときにはビックリ。もちろん気管支内視鏡検査のことをさしたのはわかっている。でも、あの場に西村先生はいなかった。ということは、「いや〜、ひどい目にあいましたよ」との報告がいったのだろう。でも、責めるような表情でなく、やさしいまなざしだったので救われた。
●患者さんに聞き歩く
そうだ、退院したら肺がんについてのホームページを開こう、と思い立ち、休憩室で他の患者さんたちにも話をきいた。Tさんは長い間、入退院を繰り返しているので、気管支内視鏡を9回も受けたという。
「慣れですよ」とポツンと言われた。あの苦しい検査を9回も、と絶句。悲しくなった。
私の入っている病室には、呼吸器以外の患者もいたが、私と同世代で手術が3度目というSさんにも話をきいた。難病を患っているらしく、2度目のときには手術をしても生死が5分5分と言われていたそうだ。しかし、彼女は手術をするほうに賭けた。入院するまであれこれ考えてつらかったと話してくれた。生きる確率が50%というのを知ったうえで手術に臨む気持ちってどうなんですかと聞くと、「天気のよい日に洗濯物を干していて、ふっと涙があふれてくるの」。それだけで納得してしまった。
-入院2週間目-
1週間目は手術とその後の痛みで過ごしたが、2週間目は定期的な検診のほかには、2階の検査階に出かけていく用事も1日1回くらいしかなく、痛み止めなどの薬のせいでぼーっとして過ごしていた。イチローの試合結果をプリントアウトしてもらい、マリナーズが勝ってイチローが打った試合をビデオにとってきてもらったが、途中から眠ってしまった。
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2002/08/02
退院が決まる
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森山先生から「内視鏡検査を終えたら、8月6日か7日に退院」と言われた。また内視鏡か……とがっかり。昼過ぎにはK先生と比企先生がきて「ネプライザーはもうやらなくていいですよ」。内視鏡検査のことをたずねると、「今度の内視鏡は、カメラを中に入れるだけなので、時間も前ほどはかからないし苦しくないでしょう」と言われた。
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2002/08/01
家族
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母とRさん(母の妹)がお見舞いに来てくれた。
相棒miyaは、昼と夕方、毎日果物をむいたり、ジュースを作ってやってきてくれるし、あらためて家族のありがたさを感じる。
Rさんは乳がんを経験しているので、私の早期発見について「本当に運がいい」を連発していた。
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2002/07/31
座薬
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空気の管がとれた。今日は採血とレントゲンのみ。病院では夜9時に消灯となるが、寝るときはいつも不安になる。目下7種類の薬を飲んでいるが、一番頼りにしているのが痛み止めの薬である。座薬は15〜20分で全身に入っていくそうだ。「痛かったから座薬を入れましょう」「痛いときは呼んでください」といわれるが、最初から座薬も渡しておいてくれればいいのにと不満だった。
一度、夜中に痛みがひどくなったので、「座薬、お願いします」といったら、「はい」と持ってきて手渡された。いつもは看護師さんが手早く入れてくれるのだが、自分で入れろということなのだろう。座薬は、今回の入院で初めて入れたのだし、自分で入れたことなどはない。灯りをつけず、暗いなかでモゾモゾと挑戦したが、何度が入れ損じて、ようやく押し込めた。あーあ、情けない。
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2002/07/30
トイレだけ不満
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体には何種類かの管が入っている。空気吸入用、尿管用、排泄用など。それらがキャスターの付いた点滴用スタンドにセットされているので、ベッドを離れるときには、それを伴って歩く。だが、日ごとに管がとれていく。まず最初は、一番とってほしかった尿管、続いて痛み止め用の管がとれた。
尿管がとれた後も、尿は定期的に調べなければならない。計量器に名前が書いてあり、それで採尿してから、今度は尿を測定するらしい機械に入れる。予め名前が書かれているので、そのスイッチを押し、機械の中に入れるだけでよい。
病院のトイレの広さは一般サイズなので、スタンドをトイレ内に入れるのにひと苦労だった。3か所のトイレのうち、2か所はふつうのドア、1か所はカーテンドアで、カーテンドアからスタンドを出してトイレに入っている人もいた。
狭いトイレ内で悪戦苦闘した後は、水洗トイレのノブを押すという力仕事が待っている。元気なときには何の苦労もないのに、後方に体を曲げる、手で押すといった作業が意外に力を必要とするものだということがわかった。
そこで、看護師さんに頼んで、別場所にある身体障害者用の広いトイレを使わせてもらうことにした。ここだとスタンドもゆうゆう入るし、コードを引いて水を流す仕組みなので力も要らない。
病院内部を改装するときには、ぜひトイレのことを考えてほしい。ウォシュレットはすでについているのだが、トイレの快適な広さ、力の要らない水洗方法は一番先に考えてほしい事柄である。
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2002/07/29
大部屋へ移動
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朝、研修医の先生が来て、痛み止めの位置を変えますね、といって体に差し直してくれた。あーら、不思議。その後はすごく楽になった(早く対処してくれればよかったのに)。
この日、昼頃に交代になった看護師Kさんも、私が手術後の2日間は「痛い、痛い」と言って消え入りそうな風情だったのを知っているだけに、急に元気になったのでびっくりしたほど。個室にいたときには、「あまりに状態がひどいので、いつ起き上がれるようになるのだろうかと心配したんですよ」と教えてくれた。我がことのように喜んでくれたのでうれしかった。この人は「痰は自分で出せますか。できるようならば、してみてください。だめだったら、チューブを入れて取りますから」と言ってくれた。機械的にチューブで痰をとられるのはいやだろうからという配慮の言葉だったので、私も懸命に咳をして痰を出した。咳をすると傷が痛むから、か細い咳しかできない。寝たままでは咳が出せないので、起きあがってコホコホ。つらいという言葉がピッタリ。
●やさしい看護師さん
昼頃から大部屋へ移れることになった。痛みがあったときは個室にいられることがありがたかったけれど、大部屋のほうが病気仲間がいるから心強い。ベッドごと移動するのだが、このベッドを上げ下げするときに、やたらギーギー音がする。音に驚いて看護師さんが個室にとんできたこともあったほど。
看護師Kさんは余っているベッドを探してきて取り替えてくれた。親切な人はどこまでも親切だ。それでも、夕方からの勤務は夜の帰りが終電近いし、肉体的にハードな仕事だと言っていた。やさしくてまじめな看護師さんたちにとって(金銭面でも)働きがいがあるような仕組みを作っていかなければいけないのだろうなぁ。
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2002/07/28
痛み継続
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昨日同様、つらい一日。寝返りも打てず、人生最大ともいえるつらい痛みだと思った(でも、これから病気をすると、人生最大の痛さとかつらさをたくさん経験するのかも)。
森山先生も検診に来て、「麻酔医の先生は痛み止めがどこか当たっているようだとは言っていたんですけどね」と怪訝そう。強力な痛み止めをしているので、予定通りならばもう歩けるはずなのに痛いから咳もできない。痰もコホッと消え入るような咳しかできない。このため、看護師さんが細長いチューブを鼻から差し込み、痰を吸入してくれる。
こんな状態だというのに、昼間はなんとカレーライスが出た。これが治療食なのか、と内心あきれたけれど、ほとんど食べられなかった。おそらく、手術2日後にはこれが食べられるようになっているぐらい回復するという前提なのだろう。
「体をふきましょう」と言って熱いタオルをもってきてふいてくれた。ほかは白いタオルだが、局所は黄色いタオルで自分でふいた。気持ちよかった。
夜中に痛さにたえきれなくてナースコールをして、座薬を頼んだところ、「夜に痛み止めを出しているので、もう少し辛抱してください」と言われてしまった。いじわる〜、感じ悪い〜と思ったが、後で「もう座薬を入れてもだいじょうぶでしょう」ともってきてくれたから、急遽「天使のような看護師さん」に格上げした。
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2002/07/27
個室にて
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ICUから個室(リカバリー室)へ移された。しかし、こんな状態で治療ができているのかと思われるくらい痛い。2日目で管がとれるという話はどうなっているのか。痛み止めの座薬、飲み薬、どちらが効いているかと聞かれても答えようがない。はっきり言えば、どちらも効いてない。ICUで痛い、痛いと言っていた女性の気持ちがわかる。昼は
相棒miyaがおかゆを口まで運んでくれたが、起きあがるのも介護ベッドを使って45度くらいまでが限度だ。
めちゃめちゃおかずがまずく、半分も食べられなかった。でも、手術後だから食べる気がしないということもあっただろう。おなかはポンポコリンでガスがたまっているみたい。
母も1時間くらいかけて、お見舞いに来てくれた。2日にわたってかけつけてくれるなんて、本当にありがたいことだ。親よりも長生きしてくれなくてはと言われた。
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2002/07/26
手術当日
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いよいよ手術の日。浣腸をしたけど、ほとんど残っていなくて大便と呼べるほどのものではなかった。ドバーッと出た後、看護師さんのチェックを受けるのはいやだなぁと心配していたら、すごく事務的に見て「あ、いいです。流してください」と言われたのでホッとした。
8:30 注射、なんとなくボーッ
8:50 地下1階の手術室へ。手術台に乗せられ、おーっ、医学ドラマでよく見る照明がある……と思ったのもつかのま、無意識の世界へ。手術が失敗してあの世行きになっても、ここまでの記憶しかないわけだ。手術後、他の病院で子宮がんを手術した女性にそうした医療事故があったと聞いた。手術中ならば何もわからないから(死んでも)いいという患者仲間もいたが、何も身辺整理をしていないと、やはりこの世に後ろ髪をひかれるだろう。
miyaは家族控え室でずっと待っていてくれた。ほかに70才くらいの女性、大阪弁の女性ふたり、60才くらいの人ひとり、25才くらいの人ひとりがいたそうだが、私の手術が最も時間がかかったという。母は手術が始まってから病院にやってきた。
●無事手術終了
集中治療室(ICU)の中で目覚めた。母とmiyaがマスクをした白衣姿で励ましに来てくれた。その姿だけ覚えているが、何を言われたのか覚えていない。
ここはとても薄暗かった。夜になって時折目覚めると「痛い、痛いよ〜」という声が聞こえてきた。その人は何回か看護師さんを呼んだので、看護師さんも「ずっとみて差し上げたいのですが、患者さんはあなたひとりではないのでもう少しがまんしてください。だいじょうぶですから」とやさしく諭していた。他の患者にとって、「うるさくて迷惑」といえばそのものズバリであっただろう。でも、気の毒に……と思っただけでまた寝入ってしまった。
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2002/07/25
手術入院
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入院。明日は手術である。病棟は同じだが、病室は違っていた。他の病室が満杯だったこともあり、この病室にはいろいろな病気の人が同居。話題もいろいろでおもしろかった。
午後4時頃に、森山先生、研修医2人の先生とともに、手術前の説明を受けた。レントゲン写真もあるが、森山先生は黒板(白いボード)に絵を描きながら解説していく。医者になるには、絵も上手じゃないといけないのだなぁと思いながら見ていた。
レントゲン写真には、上から見たとき、横から見たときで、はっきりとがん細胞らしきものがわかった。肺の黒い背景に、白い丸い影が浮かんでいる。
【以下 森山先生が説明してくれた内容だが、これはあくまでもこの時点でのこととして了解してもらいたい。医学の進歩で変わっていくに違いないのだから】
【病状説明】
これまでの検査では、がんなのか、炎症なのか、治療法はどれがよいか、広がり具合はどうなのか、手術をするとしたら全身麻酔に耐えられるかということを調べました。
1)がんは転移しやすいので、別の肺へ転移していないか調べました。
2)肺は頭に最も転移しやすいので、頭への転移を見るためにCTをとりました。
3)骨シンチで、骨への転移を調べました。
その結果、転移がないことがわかりました。ただ脂肪肝があり、きらきらしすぎですね(これってジョーク?先生自身、人のことは言えませんが、といった風情なのが愉快だった)。
以上、全部をクリアし、手術には耐えられるということがわかりました。
気管支内視鏡で、肺から細胞の一部をもらってくると、がん細胞とおぼしき細胞が出ました。カメラで見ながら、細い耳かきみたいなものでとってきたのです。
肺がんは病期(臨床病期=clinical stage)で表現し、T、N(リンパ節への転移)、M(遠隔転移)で見て表します。StageはI〜IVまでありますが、yururiさんは「Stage Ia」で肺がんが疑わしい。初期の段階なので、手術をするのが標準であると考えます。
【手術方法】
右側の肺なので、手術の際には左側を向いてもらいます。昔は背中からけさ切りして手術をしましたが、いまはあまり切らなくてすむようになりました。駒込病院ではここ5年ほど胸腔鏡を併用して手術をしています。体にカメラを入れるための穴を開け、胸腔ドレインを挿入。それから8〜12cmを切って胸腔鏡を見ながら手術を行います。ただし、癒着があるときにはこれらが使えません。
yururiさんの場合、肺の下葉後ろ側に腫瘍があります。これを部分切除して迅速診断し、悪性で間違いがないときには、全部下葉を切除、並びに周辺リンパ節の郭清(かくせい)をします。通常手術の時間は4時間くらいですが、癒着があると8時間くらいかかります。
【手術後について】
手術の後には合併症が起こる可能性があるので、予防しなければなりません。
1.肺炎
手術をすると痰が増えます。肺炎をおこすのは痰が外に出ないのが原因で95%くらいを占めます。
ですから、
1)咳をして痰を出してください。
手術の後は、痰がからんだ感覚がわかりません。傷が痛むと体に響くのでかばう。かばうと痰が外に出ない。しかし、肺の中は血液が豊富なので痰が出ないと感染しやすくなります。痰をしっかり出してください。
2)歩いてください
肺が5分の1なくなった状態でもしっかり歩けます。ただ最初は息がはずむこともあるでしょう。歩くと、こびりついている痰がでてきます。
ほかの合併症として(可能性は少ないらしい)、麻酔薬アレルギー、酸素アレルギーなどが原因で肺炎をおこした場合、手術中に人工呼吸器を使います。
2.出血
手術では400ccくらい出血があります。癒着があると800〜900ccも出血するので輸血が必要になります。しかし、輸血の副作用が出ることもあります。血圧が下がったりしたときには輸血をするかもしれません。
3.血栓症
手術中に脳梗塞になると、心臓や頭の欠陥を引き起こします。これが一番こわいのですが、特に女性のほうが引き起こしやすいため、1998年から女性には手術のときに、足に包帯を巻くようにマッサージ器を装着しています。
また、早期離床させ、どんどん歩くようにと推奨しています。
4.分葉不全
右肺は上中下と分かれていますが、まれに分葉不全の状態の人がいます。この場合は境目の部分を切り、切った部分を縫わないといけません。糸で縫っても空気が漏れることがあり、肺ろう、気管支ろう(縫った気管支から起こる)が起こる可能性があります。しかし、肺ろうは1994年から経験していません。気管支ろうは1996年に1件ありました。こうした場合は緊急で再び手術をする可能性があります。しかし、技術と糸(材料)の進歩により、まず起こらないと思います。
5.その他
心臓の病気(不整脈、心不全など)が3日目くらいから出てくるかもしれません。
yururiさんの場合、肺の腺がんの可能性が考えられます。5年以内の生存率は70〜80%くらい。ちなみに、国立がんセンターでは74%、がん研76%、駒込病院78%です。もっと高い効果をあげている療法をしているところもありますが、成功率の高い特定患者に絞ればそうした結果をあげることも可能ですから、数字に左右されることはありません。CTで(初期段階で)見つかる人が増えているので、生存率は高くなってきました。他のがんは早期がんと言いますが、肺の場合は初期がんと言います。
【手術後の治療】
手術後の外来診療は2週間に1回から始め、徐々に1か月に1回となり、2〜3か月ごとにCT、採血をします。がんの再発は5年で考えますが、肺がんは3年以内に再発がなければいいだろうと考えます。
【手術当日】
8時50分に手術室に入ります。ご家族は8時頃までに来てください。すぐに執刀はできず、麻酔などを打って、背中にチューブを入れます。10時から執刀し、3〜4時間かかります。ですから2時くらいには終わります。付き添いの方は家族控え室で待っていてください。
(ここまで説明が進んだときに、森山先生にPHS電話がかかった。音楽は「エリーゼのために」だった。うーん、イメージが……)
手術が終わると、集中治療室(ICU)に入ります。その翌日から病棟に移動してもらい、ベッドの上で昼食はおかゆを食べられるようになります。3日目から歩いてもらいます。1週間を乗り越えればめどがたちます。3日目、7日目を乗り切ってください。
入院は2週間くらいなので、退院は8月上旬を予定しています。とにかく病院内でも「歩け歩け運動」をしてください。
手術後は、痛み止めを打っているので違和感というか、神経痛みたいな感じが残ります。その後も低気圧のときや季節の変わり目には痛むかもしれません。そういうときはお風呂に入ったり、腹巻きをしたりするとよいという患者さんもいます。
肺機能は術後2週間くらいで6〜7割に回復、2〜3か月もすれば90%くらいまで回復します。
以上の説明を聞いて部屋に戻った。手術は先生にまかせておけば安心だと思っていたが、あらゆる可能性を聞かされたので、逆に不安にもなった。他の患者さんたちも「あんなにいろいろ聞かされるとこわいよね〜」と話していたが、今は起こりうる可能性を了承したうえで手術に臨む姿勢が必要なようだ(インフォームド・コンセント)。
書類の手続きとしては、「入院診療計画書」(病棟、主治医以外の担当者氏名(担当看護師)、病名、症状、治療計画、検査内容及び日程、手術内容及び日程、推定さんる入院期間、その他)を渡されたうえで、あらためて、入院診療計画書の下に「入院承諾書」と書かれた用紙にサインする。それと、「輸血同意書」にサインが必要だ。2枚とも患者だけでなく、同意者氏名も必要で、手術前に看護師に手渡してくれと言われた。
●看護師さん
看護師さんの仕事は本当に大変だと思う。でも、親身になって患者のことを考えてくれる人、仕事だと思って割り切っている人、様々である。同室に、交通事故で腕を吊した人がいた。看護師さんが食事をもってきてくれたのだが、袋入りしょうゆがあることに気がつかなかったようだ。私は、しょうゆの袋をあけて食事トレイも運んであげたが、手の不自由な人にはもう少し看護師さんが心配りをしてもいいのにと思った。この病院は、心やさしい看護師さんが多いし、疲れていれば誰でも神経が行き届かなくなるのはわかるのだが。
●手術前夜
その日の夜は、手術担当の看護師さんと麻酔医のN女医さん(長崎県出身で東京に出てきてから3年目とか)が挨拶に来てくれた。
麻酔をするときは、ベッドに寝て、胎児あるいはエビのように丸くなる。そこで、背骨のところから細い管のようなものを通す。後はわからなくなる。この間の気管支内視鏡は意識があったから苦しかったが、今度は意識がないからだいじょうぶだそうだ。
どこかで花火をしていて、みんなワイワイ言いながらみとれていた。
下剤を飲んでいるが、夜は食事なしなので、ほんの少ししか出なかった。
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2002/07/22
骨シンチ
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検査入院中に検査できなかったので、22日に骨シンチだけ受けることになった。早速骨シンチをインターネットで調べてみる。骨の代謝を盛んにする性質をもつ放射性医薬品を静脈注射した後、数時間経過して撮影をすると、骸骨部分が緑色に浮き彫りになる写真がとれることがわかった。がんが骨に転移していないかを調べるらしい。インターネットの写真を見て、おもわず笑ってしまった。これはおもしろそう。
興味津々で検査に出向くと、検査室は隔離されていて、そこで放射性物質を注射された。静脈が見つかりにくい腕なので心配したが、女医さんが一度でうまく決めてくれたのでホッとした。3時間後くらいに骨シンチを行うといわれ、いったん帰宅していいかときくと「なるべく病院内にいることが望ましい。トイレはこの検査室近くの1か所でするように」と言われた。
さて、骨シンチ。目の上に板状のものが降りてくるので圧迫感がある。目を閉じていいですよと言われていたが、好奇心でじーっと見ていたら、おでこのあたりがキーンと痛くなってきたので目を閉じた。鉛筆をおでこに近づけたような感じである。やはり忠告通りにはじめから目を閉じていたほうがよい。15分くらいというが、もっと短く感じた。寝ているだけで検査がすむのだから、便利である。
【検査入院から入院まで】
入院までにその月の仕事を終えねばならなかったので、病気のことをクヨクヨ考えるひまはなかった。しかし、おもしろいことに、なぜかこの時期、がんの話題ばかりを耳にしている。
1)かわいい子犬を連れてベンチに座っている男性がいた。犬を連れている人にはすぐ話しかけてしまう。
「この犬、病気ばかりで4回も手術したんですよ」とおじさん。
「へー、なんの病気なんですか」
「がんなんですよ。おなかのところに縫った傷があるでしょう。動物は保険が効かないから何十万円とかかるんです」
「大変ですね。ワンちゃん、がんばってね」
2)行きつけの美容院でなぜかがんの話になった。
「僕はがんになったら、絶対に抗がん剤を拒否して免疫療法をするなぁ。うちの母親はがんで亡くなったけど、そのころに免疫療法を知っていたら、手術はさせなかったと思うんですよ」
自分が手術をするとはとても言い出せなかった。 |
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2002/07/16
検査入院2日目
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●気管支内視鏡(続き)
翌日、回診の先生に聞いたら、6mmくらいのカメラの管を先に入れて、それから気管支を通る1cmくらいの管(ファイバースコープ)を入れたとのことだった。後で調べたところ、気管支鏡を用いて肺の組織を鉗子でとってくるのだそうである。それでも肺の中までは見
ることができない。
家庭医学事典などで見ると、昔の気管支鏡は、硬い筒状のものだったので、患者は首を後方に曲げていなければならず、大変苦しかったのだそうだ。現在使われている気管支ファイバースコープは国立がんセンターの池田茂人先生(故人)が開発したもので、これにより患者の負担は劇的に軽減され、楽になったという。あれで楽になったというのなら、昔の人はまさに死ぬ思いだったのかもしれない。
●CT検査
朝食はごはん、のり、あじの干物、小松菜おひたし、キャベツなどが入ったみそ汁。量は少ないけど、これでも充分だ。
昼食はCT検査があるので、抜き。
でも、戻ってきたら、看護師さんの「温めてありますからどうぞ」という手書きメモを添えて、昼食が用意されていた。分厚く固いカツ、ヒジキ、ごはん、みそ汁で、味は……だったが、昼食が食べられるということより、その心遣いがうれしかった。病院だと先生はおそれ多くて雲の上の存在だし、どうしても看護師さんを頼りにしてしまう。
お年寄りの入院患者が2階に検査を受けにきて、何の検査をするのかわからず、オロオロしている姿をmiyaが見かけたときのことである。通りがかった看護師さんが「何棟の患者か」「何の検査をするのか」と聞いてもらちがあかない。そのやりとりを聞いていたmiyaは「看護師さんって大変だね〜」と言っていた。私も同感。たった2日間、検査入院をしただけでもそう思った。
昼食を食べてから、検査入院は無事終了して帰宅。
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2002/07/15
検査入院-気管支内視鏡の苦しさ!!
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駒込病院に検査入院。
病室には5人いたが、そのうち3人は肺がんとのことだった。私の検査入院が2日間だけときくと、みんながびっくりした。肺がんのStageIIというMさんは、10日間検査入院。その後、今回の手術入院まで10日間くらい家にいた時間はあれこれ考えてしまうので最もいやだったという。翌日が手術だそうだ。
もうひとりの肺がん患者Bさんも、ずっと働いて元気だったので、肺がんになるとは思わなかったと言っていた。肺にたまった水を抜く治療をしてから手術をするのだが、長引きそうだと淡々と語る。外見だけ見ればとても病人には見えない人たちばかり。全員、タバコは吸わないのに、と不思議がっていた。
お昼ごはんが出た。メニューは、ごはん、焼さわら、オクラ、卵スープ、ニンジンとこんにゃくと高野豆腐、それにデザートはキウィ。
食事も治療の一環なのだそうだ。こんな少ない量でいいのか、いつもは食べ過ぎているのだなと実感した。
●気管支内視鏡検査
同室の人たちが「とにかく苦しい」と教えてくれたのが気管支内視鏡検査である。検査に行く前、体はピンピンなのに車椅子に座らされた。車椅子に乗るのは初体験だったので、内心はワーイと喜んだが、何か恐ろしいことが待ち受けていそうな予感もした。肩に筋肉注射をされ、エレベータで2階の検査室へ。検査衣に着替えて少し待っていると、「Kです、これから麻酔をします」と挨拶をしてドクターが入ってきた。
これから喉に麻酔をかけるが、呼吸はできること、苦しければ言ってほしいことを言われる。先生がティシューで私の舌を引き出してつかみ、喉の奥へ麻酔をチュッチュッとかけていく。
内視鏡検査台に仰向けに寝た。「薬が飛び散るのを防ぐため目隠しをしますね」とガーゼが目にのせられた。この目隠しガーゼがなかったら、口の中に入れられる管を見せられただけで絶叫ものである。
口を開けるとマウスピースみたいなものを入れられ、何か管らしいものが入ってきた。さらに、左側に透明な管らしきものが見えたが、口の中にずんずん入っていく。
く、く、苦しい〜〜〜
(はい、これぐらい序の口という陰の声が内心でささやく)
めちゃめちゃ苦しい。100回くらい言っても言い足りない。思わず咳き込むと、「だいじょうぶ、息はできます」「咳止めの薬を入れますからね」とシュッシュッとまた液を喉の奥にふりかける。
苦しければ言ってくださいというけれど、苦しい〜と言っても「だいじょうぶ」「だいじょうぶ」と検査は続いてゆく。途中で「だいじょうぶですよ」と手を重ねてくれた先生がいて、それだけでも心強かった。これぞまさに「手当」だ。溺れたときにワラをもつかみたい患者の気持ちを理解してくれている、と苦しさの中で考えた。
私のように体力に自信がある人間でもこれほど苦しいと思うのだから、先ほどあれは苦しいよ、と教えてくれたお年寄りの方々の苦しみはいかばかりか。これってお産よりも苦しいのだろうか(お産をしたことがないのでわからない)。窒息死って苦しいだろうな、といろいろなことが頭をよぎる。他の患者たちは、この苦しい検査のときに何を考えていたのだろう。
この検査が1時間も続いたらと思うと発狂しそうだったが、なんとか終わった。どれくらいの時間がかかったのか、まるで見当がつかない。3分、5分、まさか10分ということはないだろう。それにしても長く感じられた。
(*2005年7月追記:この年の夏、先生にきいてみると、20分位とのこと。信じられない!!)
このとき初めて、私は病気になったんだ、と実感させられた。それまでは体に症状が出ているわけではないから、ピンとこなかっただけだ。迎えにきてくれた看護師さんに「苦しかった〜」と訴えたら、「よくがまんしましたね〜」とほめられた。「みんなあんなに苦しいものなんですか?」と私。すると、「みなさん、そうおっしゃいます。胃の内視鏡はもっと管が太いので、痛いらしいですよ」と言われてしまった。隣の芝生は青く見えるというが、もっと苦しい検査があると聞かされてもあまりホッとできなかった。
夕方過ぎになると、病室に見舞いの人たちが多く訪れる。同じ病室の高齢な女性は母ひとり子ひとりで、在宅医療か入院医療かを選ばなければいけない状況にあったようだ。息子さんは仕事を終えて見舞いに来ていたが、息子なりの言い分を母親に説明していた。
「おふくろが家に戻ってくると介護する人を雇わなければいけない。仕事中もおふくろは元気にしているのかと心配をしなければいけないので、病院にいてくれたほうが安心だ。自分が看病で仕事を休めば、いまの厳しい時代だとすぐにリストラの対象になって、2人とも路頭に迷うことになるんだよ」
しっかりした在宅医療が低価格で安心して受けられる社会であれば、息子さんのように悩むこともなかっただろう。聞いていても切ない。息子さんは朝早くから夕方遅くまで都内(東京都の外れも含めて)4か所くらいを回る仕事を終え、疲れ果ててお見舞いに来ていた。現在はどこの企業も経営が厳しいので、ひとりが病気になったり、家族の見舞いで休みがちであったりという状況になってしまうと、労力の不足する部分を他の社員で補い合うというゆとりはない。リストラか配置替えかという状況になることも多い。息子さんの言い分はもっともであるが、沈痛な面持ちで聞いている母親の気持ちも痛いほど伝わってくる。話し終えた息子さんはハッとしてみんなのほうを振り向き、照れるように頭に手をやって言った。
「これもみんな、私がずっと独り者でいたから、おふくろに迷惑をかけているんですけどね」
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