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 同じ病院で、末期がん4期と診断され たLPさんから「明るく元気を出そうというメッセージ。


 

 2月8日に書いた「患者さんたちの元気の出る話から」  
 入院しているLPさんとAさん

 治療を終えて上階のLPさんとAさんを見舞った。
 2人とも元気そうだったが、Aさんは「こんなふうになっちゃいましたよ」と栄養剤点滴を指さした。
 3日前に始めたが、1kg太って40kg近くになったという。3日間で「チーデブだね」と2人で笑い合っている。

 「健康なときには食べられるということなんて当たり前のことだと思ってましたよ。食べられるのは幸せですよ」
 それをきいてLPさん。
 「Aちゃんはね、決して泣き言を言わないの。昨年の12月なんてずっと具合が悪くて寝ていたけれど、グチをこぼさなかった。なぜこんな若い人ががんになるのだろうと思うと悲しくなる。Aちゃんの悪いところをマグロの中落ちみたいに骨からギシギシ削れたらいいね」といって、手で削るマネ。
 「泣き言いっても他人にはわからないですから……。ドラえもんのポケットから何でも出してもらえたら、20歳位の健康な胃腸がほしいです」

 LPさんは私に対しても、「これからどうなるかわからないのだから、食べられるときに食べて体力つけなきゃ。私も3日前に突然ちゃんと食べられるようになった。やせようなんて思ったら大間違いだよ」と言った。

 「このごろ3泊4日とか短い入院の人が入れ替わっていて重病なのは私たち2人だけ。お互いがいるから頑張れるという面もあるね。あー、こんなに頑張ってるんだって。壮絶というのは私たちみたいなことだよね(笑)」
 確かに、今、マスコミでは壮絶って使いすぎ。彼女たちは患者としては日本有数の延命記録を作り続けているけど、ごくごく自然体。
 「MSコンチンは確かにいい薬。でも、私はすすめない。薬を抜くとき、それは、それはつらかったもの」
 でも、MSコンチンを使い始めてから多くの人が力尽きていることを考えれば、MSコンチンを抜くことができるまでいったLPさんがいかにすごいかおわかりいただけるだろう。

 「グループに○ちゃんも入るっていうから、来週退院したら電話するね。いろいろ情報を出していこうよ。お花見にも行こうよ」
 Aさんの入院は長引きそうだが、え、これで病気なのと思えるぐらい、2人とも明るい。
 こんなときにはどうだったのだろう、どうやって副作用を軽くするように工夫したのだろう、といった困ったことをお互いに話し合って情報を出していこうということで盛り上がった。

 ふと窓際の壁を見ると、たて15cm位の鬼の折り紙が飾られていた。
 「どうしたの、これ」
 「私が作ったの」とLPさん。
 節分の日に、これを貼って「鬼は外〜」で窓の外に豆まき。「福は内〜」で病室にほんの少し(?)まいたそう。たんぽぽさんが喜びそうな鬼の折り紙。

 「片付けは誰がやったの」
 「看護師さん」(笑) 
 「始末書、書いたりしてね」(Aさん)
 「えっ、始末書?」
 「禁食の人に、大福をあげてベッドの前に飾っておいたの。そうしたら看護師さんが、なぜそんなことをするんですかっていうから、禁食の人がこれを食べたいなあって思えば元気になりたいと治療に励むでしょうと答えた(←パチパチパチ)。
 今回は看護師長まで報告をあげることはやめておきますが、今度こういうことをしたら上に報告しますよ……と言われちゃった。結構、悪ガキしてるのよ、私」
 看護師さんもユーモアをまじえて言ったのだろうか。そこのところはわからないけれど、楽しい話で特に目くじらを立てることもないはず。

 別れ際にみんなで「ここの先生は、どの科もみ〜んないい先生、そして、それ以上にやさしくて、いい看護師さん♪」という言葉で締めた。
 「それはきっと院長先生がいい人だからだね。会社だって社長がよければいい会社じゃない。LPさんは経営者だからわかるでしょ」
 「うん、そうだね」
 「でも、院長先生、タバコ吸うんだよ」との会話で急に盛り下がる。
 
 そうそう、LPさんが最初に買ったカツラは50万円もしたそうな。0120-なんとかでCMしている大メーカーのものを買う必要は全くない。それも情報として書いておいてといわれた。
 「1万円ので十分。そういった安いのでおしゃれを楽しむほうがよほどいい。病気をしてもおしゃれしなくちゃ」


2005年9月にLPさんが書いたお手紙です。 1月17日に書きました。
  皆様へ 

 周りの皆様に肋けていただき、こんなに元気になりました。
 ・・・ 今、私は暇です。私の闘病の話を聞いて下さい・・・。

 2年前(2003年)の丁度今頃、お腹と背中を中心にころげ回る程の痛みに襲われていた。あらゆる検査を重ねた後、10月末に病院から家族が呼ばれ、本人同席で胆道癌の告知を受けた。

 大動脈を囲むようにドーナツ状にリンパにも転移していて現時点では手術の段階は過ぎている。
 今後の治療方針として 1)放射線と抗癌剤治療 2)鎮痛剤のみ 3)ホスピス、以上の中から本人、家族で話し合って決めて欲しい。ただし1)の場合でも薬の届きにくい場所に腫瘍ができているため、薬効の多くは望めない、と説明があった。

 自分から「何もしなければどの位生きられますか」ときいた。ずばり[早ければ3〜4ヵ月]。
 ハッと我に返り娘の顔を見ると、泣くに泣けず、苦渋に満ちた顔で私の顔色を伺っているのを見たら可哀想で胸がはりさけそうになった。
 即座に「先生、頑張りますから放射線でも、抗癌剤でも治療して下さい」と言った。

 11月1日から放射線が始まり、12月末まで25回読いた。連日、船酔い状態で嘔吐の繰り返し。髪の毛は抜け、食事はおろか飲み物も受け付けず、体重も落ち、歩行もできなくなり、車椅子に乗った。治療の苦しさは想像を遙かに 超えていた。さすがに自分でも死を意識するようになっていた。
 そんな中でも正月には医師が少なくなるため、ほとんどの患者が家に帰され、私も家に戻った。5月に結婚が決まっていた長女の結婚式を、私が生存中にとの配慮から急遽、退院中に行うことになった。

 結婚式の前夜、私を囲み娘二人と川の字に寝て、しゃべり明かすことにした。すぐ二人とも黙ってしまい眠ったのかと思って伺っていると、黙って涙を流していた。話しかけようとしたら、「お母さんが死んじゃいそうで怖い、まだまだ生きて色々なことを教えて欲しい」と泣きじゃくった。

 ・・・実はこれ以前、私は加療の苦しさで生きる自信を失い死の願望すら持ってしまっていた・・・

 娘たちの泣く姿を見て、病気になった申しわけなさがこみ上げてきた。そして本気で病気なんかに負けてたまるか、絶対生きてやる!!と思った。

 結婚式も最初の方しか出席できなかった。
 再び結婚式の翌々日に入院。抗癌治療が始まった。年末まで病室から一歩も外に出なかったのに積極的にロビーに出て、仲間と語り、一緒にテレビを見たりするようになった。特に火曜日のNHKの歌番組は皆が好きでカラオケのように一緒に歌っていた。歌が苦手な私は車椅子なのに“きよしのズンドコ節”などに合わせて即興の変な踊りで皆を笑わせた。

 こうして一緒に過ごした仲間も次々重病室に移され何人も亡くなり、何度も泣いた。

 また、ある時、患者仲間で「俺達はまだいいよな、モルヒネを使うようになったら終わりだもんな」と話題に上った。モルヒネを使っていた私はショックを受けたが黙っていた。

 何日も悩んだ末、医師にモルヒネの話を尋ねた。
 昔のモルヒネ感覚と、現代医学のモルヒネは全く違うことを知らされた。痛みを持つ患者には利益はあっても苦はなし。こんなに素晴らしい薬はない、不要になったらいつでも抜けると言われた。

 この間抗癌剤の副作用で白血球が減り、2回隔離された。 1000を切ると命にかかわると言われ、医師にも看護師にも必死に看護してもらった。

 5月の連休にはまた一時退院しすぐ再入院したがこの頃には歩けるようになり、髪の毛も少しづつ生え姑めた。全く痛みもなくなり、6月にはモルヒネも抜けた。抜く1週間はやはり苦しいものがあった。

 食欲も戻り、9月10日にCTを撮り17日に家族が呼ばれた。2003年11月入院以来初めて癌が小さくなっていることを聞かされた。 現在は退院し1週間抗癌剤治療、2週間休み、毎週金曜日通院している。まだ白血球が下がることが多くて人混みの多い所は禁止されたり、マスクをつけての外出となるが、見た目は元気な頃の私と変わらない。

 

*****

 話を間いていただいてありがとうございました。
 癌=死というのは一昔前の話で現代は癌と共存の時代で、巷は癌患者さんが多くいるそうです。9月29日にはMRIを撮って私がなぜ良くなっているのか病院の方で知りたくて調べるそうです。

 今、私は応援していただいたお一人、お一人から新たな命を頂いたような気がします。そして感謝の気持ちで一杯です。後どれ位生きられるかわかりませんが、当初3〜4ヵ月の命と言われながら、軽く越えられました。一日一日を大切にこれからも懸命に生きようと思います。これからも、よろしくお付き合い下さい。
 ありがとうございました。