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元気に体験談  rareさん                06年10月7日                     

 

 

 rareさん    粘る稀ながん患者です  
 

ゆるりん村の皆さん、初めまして。
多少前に取り上げて頂きました  ←9月18日
rare=粘る稀ながん患者です。

東京はやっと秋らしいすっきりとした秋空。

食欲の秋は当然ながら、芸術の秋。

ということで、似合いもしない芸術鑑賞。それも無謀にもダリ展。
【ダリって誰という人は、ダリ回顧展のHP
ENTER→展示作品でご覧下さい】

しかし、ダリ展はさすがに無謀でした。
絵を見て「?」。
それでは、作品名を見て「??」。
絵と作品名を一緒にすると「??????」。

ちなみに、絵はダリ展HPで見てもらうとして、作品名だけをいくつか。
・家具栄養物の離乳
・9月末の3匹の焼いた鰯のある皿の中の電話
・愛情を表す2切れのパン
・焼いたベーコンのある自画像
・奇妙な廃墟の中で自らの影の上を心配でふさぎがちに歩き回る、
 妊婦に姿を変えるナポレオンの鼻
などなど

ちなみに、「(略)ナポレオンの鼻」は解説によると

 

 ダリは自らの著書の中で、「私は6歳のときには料理人になりたかった、7歳のときにはナポレオンになりたかった」と語っている。そして、彼はナポレオンを、あらゆるものを支配する男性的力強さを備えたエロティックな絶対者と見てとったのである。それゆえに、題名にあるその人物の鼻は、当然のことながら男根を象徴している。そして、彼によれば、その形態は膨らんだ妊婦の腹を連想させる。そこにはまさに生の循環があると同時に、死が内包されているのである。その憂鬱さにナポレオン、すなわち自身は彷徨うしかないのである。(解説より)

 

とのことです・・・とりあえず、この解説についての
「セカンドオピニオン」が必要ですわ。

やはり、芸術の秋はあきらめて、食欲の秋のほうに集中しようっと。

 
   

 


 yururi     ブログ 「粘る稀な患者さん」    Sep.18

 

 

「粘る稀なガン患者」http://neuroendocrine-tumor.cocolog-nifty.com/さんは、
膵内分泌細胞ガンという数十万人に一人というがんにかかり、
仕事もしながら治療を受けている50歳になったばかりの男性である。

自分がそのように稀ながんにかかったらどうするか。
この人のようにできるだろうかと、考えながら読んでいる。
病気と向き合う姿勢が明快だ。
工学部を卒業しているから理数系の頭脳をおもちなのか、
常に掘り下げ、「考える」とはこういうことかと感心させられる。
医療知識も詳しく、専門的な内容は難しいところもあるが、
テーマによってはわかりやすく、興味深い。

高校・大学時代にはかなりの読書人間(海外の著名な作家物)
だったことが、患者としての自分を深く見つめる姿勢に
つながっているようである。

1ファンとして一方通行のリンクをお願いしたら、
「リンク大歓迎」との返事をいただいた。
2005年11月から始まったブログは、全部読んでいただくのが理想だが、
紹介するために項目分けし、好きな文章から3つずつを選んでみた。
患者としての考え方はとても参考になる。

以下「粘る稀な患者」さんのブログより部分抜粋

■人(ひと)としてのテーマ

 

2005年12月15日 (木)「反省」と「後悔」

 

内容が難しくても、理解できる範囲での判断はできる。時間が限られていても、その範囲内での判断はできる(略)。 
結果を考えるのがおそろしくても、結果はやってくる。

判断すべきことを判断しないのは、逃げであり、おのれへの不誠実である。「後悔」すべきものである。
 

2005年12月19日 「What should be done?  What can be done?」

 

なにをなすべきかを考え、そのために、現実になにができるかを追求する。なにができるかを考え、その中で、なにがなすべきこととして最善か追求する。
・・・・・・そのような人に私はなりたい。
 

2006年1月 6日 (金) 充実させない生活

 

人の暮らしというのは、そう簡単にはかわらない。
 (略)
 「がんが存在しないかのごとく、ただし、全てはがんの進行のままであることを絶えず念頭におきつつ、自分の生活をする」といえばどうでしょうか。

■患者の心得
 

2005年12月 1日 (木) 余命告知

 

どんなにつらいことであっても、自分のことは自分で把握し、その上で、納得いく(別の見方では、自己責任を背負える)治療を求めていきたいと思っている。
 

2006年8月30日 (水)「取らぬ狸の皮算用」
 

今後、起こるであろうことや起こりやすそうなこと、あるいは、起こるとは限らないが起こったら困るだろうことを、予め想定して、その際、どのような対策があり得るか(不十分なことは承知の上で)自分なりの対応を考えておく。
このようなことを習慣づけていれば、(不幸にして)起こってしまった時に、医師の話を聞いてもより深く理解できるし、多分、より適切な判断ができる。
(略)
このためには、ある程度の事前勉強が必要である。
そんな難しいことはできないなどと逃げないで欲しい。自分でできる範囲の中で努力すれば良いのだから。
 

2006年9月 4日 (月) 人事を尽くして天命を待つ
 

患者は、いくら勉強しても素人です。医師と同じレベルにはなれないでしょう。といって、それが患者としてのベストを尽くさない理由にはならないでしょう。
(略)
患者は、その人事を尽くして、医師(医学)に委ねる。医師は、医学を尽くして天命を待つ。

その積み重ねが、神に近づく(=がん医療の進歩)への唯一の道ではないかと思うのですがどうでしょうか。


■医師と患者の関係 
 
2005年12月13日 (火) 「医師」語 
 

患者側は「正確」さを求めるため、医師語を勉強
医師側は、「問題のない「不正確」な」日本語の習得
 

2005年12月13日 インフォームド・コンセント その1
 

そもそも、患者が「説明を受け理解」ということがありえるのだろうか。
治療というのは、医師がそれまでの医学の積み重ねを学び、更に、自らの経験を重ねた上になりたっている。それを(多少、勉強しているとしても)素人の患者が「理解」できるならば、医師の存在価値はない。
また、「説明」というが、医師は「医師語」で物を考えているのであり、それを普通の日本語に翻訳したとたんに(言葉が違うのだから)差異が生じることとなる。 
 

2006年8月22日 (火) 馬や牛の神様とブロッケン現象
 

有名な山岳現象としてブロッケン現象がある。
(略)
医師との会話でも同じである。医師は所詮患者ではない。にもかかわらず、自分(患者)を相手に投影してしまい、自分(患者)と同じ存在であり、自分(患者)のことは全て理解していると思ってしまう。そのために、積極的に相手を理解し、あるいは、自分を理解してもらう努力を欠いたまま、患者の気持ちを理解してくれないと不平のみがつのってしまう。
 

■批判も的確
 
2005年12月12日 (月) 安全と安泰
 

予防接種にしろ抗ガン剤にしろ、いたずらに「副作用」のみを騒ぐマスコミやそれを不思議とは思わない国民性に疑問を持つこのごろである。
 

2006年5月30日 (火) 白馬非馬論
 

がん患者も同様である。(不運にして)がんに罹っているというだけではない。例えば、私だったら、男性であり、社員(あまりろくな働きはしていないが)であり、音楽はバロックを好み、手先は不器用であり、好奇心旺盛である、将棋は好きだしかつてはそれなりの強さ(アマチュア3段格)だったし、病気が見つかる前はマラソンに凝っていてフルマラソンの記録は3時間1分45秒・・・
本ブログでは、意識して「がん患者」としての側面から書いているつもりであるが、別にそれが私の全てではない。
(略)
どうも世間の人は「がん」と聞くと(伝染しないのに)特別視するような気がしている。白馬は馬でないというのは屁理屈と思っても、がん患者は人間でないと思うのだろうか。

全部参考になるページ
 
2006年1月12日 (木)   転載:もし癌宣告されたら
2006年8月29日 (火)   初代カローラ開発の10ヶ条 

■愉快なエピソード 
 
2006年5月23日 (火) 経緯 静脈瘤 -8-
 

また、同じ病室には、何故か明るい患者が集まってしまった。

会話 その1
C型肝炎のため、毎月のように入院する方には、10回入院のたびに1回割り引く回数券が必要ですね、とか、いや、10回の入院ごとに、看護婦さんと同伴入院では・・・
すると、点滴も10本毎に1本の無料サービスか・・・

会話 その2(略)
会話 その3(略=楽しいので読んでください


なぜファンレター(?)を出したか。
ひとつには、8月22日に「ブロッケン現象」について書いていたからだ。
これはコスモスさんが写真入りで「コスモス 便り」に書いていた
ではないか。これは何かのご縁だ(←単なる思いこみ)。

それと、上記5月23日の愉快な「会話編」。
「かなり個性的というかマニアックな記事ばかり」と本人は語っているが、
この文章を見れば、楽しいことにも十分アンテナをはっている様子だ。

ならば、2006年8月26日に「二重人格のすすめ」を書いているように(笑)、
別キャラクターで 、いつでもいいから、
ゆるりん村に遊びにきてくれないかとお願いしてみた。

そうしたら、キャッホ、うれしや
ふらふらとさまよい歩いて、年に何回か顔を出す吟遊詩人か乞食
いうところでしょうか」
とカッコイイ返事がきた。

村には熱烈ファンがいるから、首を長くして待つことにしよう。