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<11>泳げない理由
文京区は学校が多い。きれいな校舎の横を通り過ぎたときに、miyaさんが「急に腹が立ってきた」と言った。
◎小学生時代
miyaさんは団塊世代の一番最初である。本人がいうには「粗末な教育環境で過ごした」。当時中央区に住んでいたが、幼稚園は抽選で外れ、小学校に入学した最初の年は教室が間に合わず、都電の廃車が急遽教室になった。都電に入るクラスは学期ごとに交代するのだが、1クラスに55〜57人もいて、12クラスもあった。その後の学年も児童数が多いので校舎増築の計画が立ち上がり、校庭は資材置き場と化した。プールも当然資材置き場になった。
小学校の春の遠足は、千葉県稲毛海岸への潮干狩り。バスでなく京成電車に乗って出かけた。帰りは網に入ったアサリをもってみんなビタビタと水を垂らしながら大はしゃぎで電車に乗った。今ならば大ひんしゅくものである。こういうことがあったから、miyaさんは電車の中の子供には非常に寛大である。当時、チューブ入りチョコレートなどお菓子をいろいろもっていったが、アサリをつかんだ生臭い手で食べたからおいしくなかったのが思い出だそうだ。
小学校の遠足では日光にも箱根にも行っていない。秋になると都電を貸し切ったりして近場に行った。
◎中学生時代
小学校を卒業、中学へ進んだ。
中学は入る早々、新校舎建設のため、プレハブ校舎に詰め込まれた。夏は暑く、冬は寒い。3年間新校舎が完成しなかったので入れずじまい。災害のためにプレハブ仮設住宅に入り、文句を言っている人たちを見ると、複雑な思いがするそうだ。
グラウンドはもちろん工事で使えず、プールはなかった。このため運動会は別の場所を借りて行われた。そのころから東京オリンピックを控え、あちこちで工事が始まり、都心地域は人が住みにくくなった。miyaさんは中学途中でやむなく中央区から荒川区に移った。買い物、銭湯など生活の場がなくなると、便利な場所を求めて引っ越さざるをえない。だから、miyaさんはオリンピックに良い印象を抱いていない。「きっといろいろな所で不便な思いをした人がいるはず。大体都市のまんなかを高速道路が走る国なんてないんじゃないの。ふつうは迂回するでしょ。パリのエッフェル塔近く、ニューヨークの自由の女神近くとか、住宅街の真ん中に高速道路が走ってる?」
◎高校生時代
高校は越境入学で、当時の都立名門校へ。校舎は古く、講堂と体育館が別々にあり、教育も進んでいて、ゆとりある高校だった。だが、プールは水もれがするといって使えなかった。
隣の庭園と学校を隔てる塀に穴が空いていて、自由に中に入れたので、夕方、誰もいない庭園内を散歩するのは楽しかったらしい。
ほとんどの生徒が国立受験をする高校だったので、卒業の年に行われる受験相談では「えっ、私学をお受けになるの? じゃあ、相談することもないでしょう。適当に内申書は書いてあげますよ」といわれた。なぜ音大を目指したかといえば、受験学科が少なく、実技試験が先に行われたからである。ピアノは中学から習っていたが、習い始めが遅い(要するにたいした音楽の才能はない。音感も相対音感)ので演奏家は無理と判断し、音楽を学問として勉強しようと考え、「楽理」を受験した。
だから、今でも、音楽に関してはすぐ分析し始め、「ほら、ここで五音音階が出てくるでしょ、これは流行歌の特徴なの」「リズムは海外をまねしてドンパタ新しいことをやっていても、こういう旋律が内側に入っていると、若いのに演歌のセンスだよね」などと能書きがうるさい。音楽番組を見せないための嫌がらせかと思われるほどである。
◎音大生時代
無事音楽大学に入学。女子寮はものすごくきれいなのに、男子寮はあばらやだった。miyaさんは自宅から通っていたが、友達が寮暮らしなので、しょっちゅう遊びに行っていた。あばらやの連中は、学校のレッスン室を使えばいいのに、学校へあまり行かず、夕方起き出してあばらや寮で練習するものだから近所でひんしゅくを買っていた。
クリスマスの季節になると管楽器をもって5〜6人で近所の家を回り、玄関で「きよしこの夜」を演奏したこともあった。音大生だから、それはそれは美しく上手に演奏する。miyaさんはピアノが主だったが、音大の学生は副科といって必ず別の楽器もやらされ、打楽器だったので、こういうときにはトライアングルを担当した。
家の人が音楽に驚いて玄関に出てくると、「主のおめぐみのあらんことを」などと意味不明なことをいい、次の家へ行って同じことをした。飽きると寮へ戻って酒盛りしたり麻雀したり。麻雀しながらもクラシックのシェーンベルグやアルバン・ベルクなど新ウィーン楽派という一般の人が聴かないような音楽を大音量でかけ、「あ、それポ〜ン」などという合間に「お、今のところはこういう低音の進行だよね」の会話がとびかっていた。
学生は1100人中、女子が1000人ぐらいを占めていたので、体育は美容体操みたいなもので、参加していれば単位をもらえ、プールはもちろんなかった。
◎昭和の体育
かくて、miyaさんはいまだに泳げない。サッカーや野球など団体競技は何人でやるのか、よく知らなかった。小学校、中学校の男女別体育は、2学級合同で区のグラウンドなどを借りて広い場所が必要な競技をした。だから、全体÷2で、1チームは20数人単位だった。サッカーは20数人ずつのチームが敵味方50数名でグラウンドを走り回り、「競技というより人混みだったねー」と振り返る。全員がフォワードで、ゴールキーパーは5人もいた。ルール無用でボールを蹴っているだけだった。
ソフトボールは授業中にとうとう1回も打席が回らない子もいた。外野はいっぱい守っていたが、それでもライトゴロで3塁打になることもあった。イチローはライトに飛んできたボールでランナーを刺してライトゴロにしたことがあるが、通常ライトゴロなんて考えられない。外野みんなでボールの奪い合いをしていたから、ランナーはゆうゆう3塁まで行けたのである。それはもう粗末な授業だったそうだ。
miyaさんは教科書を買うと、春休み中に全部読み物として読んでしまっていたので、記憶力のよさを発揮してその年1年間はさほど勉強しなくても結構好成績で過ごした。中学、高校も同様だった。勉強せずに空いた時間を鉄道少年やラジオ少年として過ごしたので今日の“コンピュータおじさん”が形成された。
そんなことを話しながらウォーキングしていると、「紅茶とマドレーヌ」をきっかけに少年時代に遡っていくプルーストみたいだねなどと気取ったことを言っていた。私は「紅茶とアップルパイがいいな〜」と思ったが、プルーストは「失われた時を求めて」しか知らないと言ったら、そのことなんだけどと言われた。
ウィッキーを探すつもりが、ほろ苦い思い出になってしまった。団塊の世代は泳げない人が結構いるよとmiyaさんは泳げない言い訳を時代のせいにしている。その代わり、ベーゴマ、メンコ、駄菓子屋のおばばや紙芝居おやじとの駆け引きなどは名人級だったと自慢している。
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