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 今日もmiyaさんは場末歩きにでかけた。
 ジョイフル三ノ輪商店街から仲町通り商店街と歩いたが、祭日なので休みが多くてつまらなかったといって帰ってきた。
 ちょっと行かないと老人経営の店はなくなってしまうので、商店街は思ったときが買い時。次回はもうないかもしれないという緊張感をもって行かないとだめですねなどという。
 三ノ輪の商店街では、カツパンを売る店が2軒あったが、1軒は、とうとう食べないうちに消えてしまった。

 miyaさんはパンというと「カツパン!」というくらいにカツパンが好きだ。以前、近所にまことにおいしいパン屋があったのだが、ご主人が亡くなって廃業した。いわゆるモダンな横文字のパン屋ではなく、ガラスケースにアルミのお盆にカツパン、コロッケパン、サラダパン(ポテトサラダ)など並べ、紙の袋に入れてひと捻り、主人は不機嫌そうで、オバサンも愛想がないが、東京の昭和30年頃はみんなこんなものだった。ずっとシャッターが閉まり、やめてしまったことが分かったときは、カツパンとの永遠の別れをとても悲しんだ。スーパーなんかなくなったって代わりはあるけど、名人の代わりはないからねーと憮然としていた。

 <22> 羽振りよかりし頃
 「もっと、この、羽振りのよい話はないの」
 「そういえば、昔、海兵隊の仕事(兵隊でなく、慰問のバンドマン)で戦時下のベトナムへ行っていた頃は、週$2000($1=\360の時代)位になったこともあったねー。ラスベガスの一流バンドのスタープレーヤー並みだったね」と懐かしそう。
 「それで、一つショロン地区の貸家を、一緒に行った仲間4人で借りることになったのよ。広い部屋が8つくらいある豪邸(日本の感覚)で、確か$500/月だったような記憶があるけれど、なんたって週$2000だから成金お大尽ですよ。
 部屋は広く、よく映画に出てくるような造り、しかもオリエント風。寝室が4つもあり、食堂ですよ、食堂!!(←チンケな日本のダイニングではないことをいいたいらしい)。天井も高くて扇風機も付いているんだから」

 白い麻のスーツなんか着て、カンパリソーダでも飲んで、メイドに指図なんかしていれば根っからのお金持ち風。
 ところがmiyaさん達は、ヨレヨレTシャツ、半ズボン。

 「部屋が広くて落ち着かないね。天井高くて不安だね。猫なんか背中の上に天井があると落ち着くというじゃん。
 大体ね、ドン(←ベトナム通貨)に交換したときに、ドルは強いねー。現地通貨に交換したら、こんなに紙幣が来たよ。いくら使っても減らないねと言っていたのに、ドンを持った瞬間に、一気に現地通貨の価値に切り替わり、なんか購入するたびに、えっー。高いジャンという始末。
 
 「当然外国だから、ハウスメイドがついているわけですよ」
 「それで、それで、どうしたの(←miyaさんの羽振りのよいころなんて信じられないyururiツッコミ)」

 「現地の50歳くらいのおばちゃんが白い服を着て通って来るんだけど、掃除と洗濯何でも頼めばやってくれる。何しろ、日本にいたときだって、ねーやなんかいるわけもなく、もちろんメイドなんか使ったことないから遠慮してしまって、あれしろ、これしろ、買い物にいけとかいえなくて、妙に卑屈になり、あ、それは自分でしますへコヘコ。後でやるからいいですヘコヘコ」
 「情けないなー、オバサンはすることがないと困ってしまうんだから」
 「じゃ、あんたが号令係で、指示すればいいじゃない」
 「いや、なんか、お袋に命令するみたいで、ちょっと、アレですよ」
 「だれか、ちゃんと出来る人いないの」
 「ほら、買い物に行くけど、必要な物を言えと行っているよ」
 「頼むと、悪代官がお人好し農家の老婆をいたぶっているという感覚がしない?」
 「・・・・・」
 「だって小学校で自分のことは自分でしなさいという教育、受けたじゃない」
 「じゃ、教育が間違ってたんじゃないの」
 結局、頼むのだけど、頼んだ後、みんなはヘトヘトに疲れて、やっぱり自分でやったほうが楽だねぇと根っからの貧乏性。

 知り合いの外人の家へ行くと、堂々とメイドを使って、メイドの存在なんか感じないふうだったが、miyaさんのところではメイドがお客様という感じになっていたそうだ。

 「やはり、貧乏人が金を持ってもなかなかスマートに使えないねー。金持はやはり天性の才能かねー」といって、しばらくしてからまた安宿へ移り、暇なときには市場へ舞い上がりに行っていた。

***

 それって、ちっとも羽振りのいい話じゃないじゃん。で、安宿に移り、お金がどんどんたまったかというと、もちろんたまった。だが東アジアとインドの一地域の経済に大きく貢献して、帰国したときはやはり貧乏に舞い戻っていた。
 結論。バンドマンは金をもてない。だから、バンドマンなのだ。

 【追記】 お金がたまったのに、なぜ貧乏になったのかという問い合わせメールがきたので、即効でお答え。
 
 半年近く働いたころ、米軍の戦況が不利になってサイゴン陥落が近づき、サイゴンから外へ出てくれといわれた。軍の仕事で沖縄の普天間基地からタンソンニェット空港(軍の空港)に入っているので、査証をとっていない。ということは、出入国が記録されていないということなので、密入国になってしまい、どこへも行くことができない。それで、トンキン湾の沖合にある空母に兵隊さんたちと一緒に撤退。フィリピンの米軍基地へ行き、米軍から軍の仕事をしていたという証明書類をもらい、フィリピンの入国管理事務所へ行った。すると、日本を出国していないから入国はできない、日本大使館へ行けという。そこで、日本大使館へかくかくしかじかという説明をしたら、
 「いったん東京へ行って出国の手続きをしないとだめじゃないか」
 「出られないから言ってるんですよ」
 「そんな前例はないから」
 「だから、米軍の書類もってきたじゃない」
 「だ・か・ら〜、それをもって東京へ行けばいいじゃないか」
 (もう一度頭から繰り返し)
 それで、日本国民であるだの何だのの証明書を書かされた。パスポートはあるのに、なんと面倒くさいのか。役所の対応は、どこへ行っても同じだねと嘆息。
 次に行ったフィリピンの入国管理事務所は輪をかけて交渉に苦労した。フィリピンの英語はスペイン訛りなので、チンプンカンプンなのだ。ハンバーガーのことをハンバルグワァールという。とにかく禅問答のようなものだった。

 さんざんな思いをして、正式に民間人として入国した後は、フィリピン、インド(旧カルカッタ周辺)、タイ、カンボジア、インドネシア、ラオスなどを約半年間、旅して帰ってきた。フィリピンでバンド仲間と別れ(みんな、インドには行きたくないと言ったから)、miyaさんは一人旅をした。その間のホテル代など生活費に消えたのである。
 「だって、バックパッカー(←荷物をもって歩いている貧乏旅行)じゃないもん。ランクは下でもいちおうホテルに泊まったよ」といばっていた。
 一人旅をしたアジアのことは、また書くそうなので、お楽しみに。

(2005年1月9日)