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  T.A氏
    61歳
    話:2002年8月、
    2003年春

  【きっかけ】
 台東区の区民検診を見つかりました。

 受診した診療所から翌朝電話があり、フィルムに影があるといわれ、稲荷町の医院でCTをとることになりました。その医院で慶応大学8年先輩の西村先生がいるからといって駒込病院を紹介されたのです。
 
 1998年9月に診察を受けてすぐ手術をしましたが、結局は転移、再発しました。心臓、食道近く、左肺に近いところ、リンパ節などに転移し、放射線治療を33回受けました。でも、放射線を当てられなくなった段階で、いったん退院し、外来で抗がん剤を始めました。

 抗がん剤治療は入院してやらなければいけなくなり、2001年5月16日まで入院していましたが、2回抗がん剤を打って、3回目のときに肺炎を起こしたので「好きなものを食べて体力をつけましょう」ということになりました。

 そして、外来診療にきた7月23日、緊急入院しました。リンパ節に入るたちの悪いがんです。あまりに咳き込むので、同じ病室の仲間からは「もしかしたら危ないのではないか」と思われたぐらいです。どうにか持ち直して抗がん剤治療を受けられるまでになりました。それでも、痰や咳が出るので、ティシューはいつも手放せません。舌禍障害で飲み込めないので、薬もヨーグルトで流し込んでいます。

 どんなに昔を懐かしんでも、昔は戻ってきません。それが残念です。病院が100%治せるならばたいしたものだけど、健康診断で見つかったときにはすでにがんが大きくなっていた。どうしてそんなになるまでわからなかったのか。
 
 今は、これからあと1〜2年でも生きられれば感謝できると思えるようになりました。がんになった精神科医の人が「術前人生と術後人生には別の人生がある」と本に書いていましたが、本当に実感されます。

 【転移・再発】
 手術後は職場に復帰しましたが、転移したのではないかという自覚症状はありました。仕事を終えて帰ると、とにかくどこでもよいから横になりたい。30分休憩してから行動していました。会社が休みのときもだるくてしようがない。昼寝をするときにも以前ならば15〜20分も寝れば十分だったのに、体が悪くなってくると地の底に吸い込まれるようなだるさがありました。

 入院合計は133日+今回の入院で継続中。がんという病気は、転移は必ずあると思います。

 【長い入院生活、その後】
 2003年春に外来で会ってその後の状況を聞く。赤いVネックのセーター姿のTAさんは昨夏よりもやせていました。

 2002年6月末から11月初めまで今回は131日間入院。第四腰椎、肺に転移し、抗がん剤治療により、髪の毛も髭も眉毛も全部抜けました。ヨーグルトに薬を溶かして飲んでいましたが、その後1滴も水も食事もとれなくなり、点滴だけて90日間過ごしました。56kgの体重が退院時には46kgになりました。

 これを見かねて2002年11月、K先生が食道の先生と相談して口から管を通し食道に通じる穴を作ってくれました。がんが食道に穴をあけてしまっていたのです。
 
 昨年8月の時点で主治医のN先生から2003年2月までしか生きられないといわれていました。でも、11月に食道を通したら翌日には水を飲めるようになり、重湯を食べられるようになりました。K先生からも看護師さんからも精神力が強いといわれましたが、あのころは「生きたい」という明確な目標をもっていたから頑張れたのだと思います。そうしたら1週間たったときに退院してよいと言われました。もう手は尽くしたということだったのでしょうね。フラフラしてとても退院できる状態ではないと思いましたが、仮退院しました。でも、食べられるようにいろいろ手を尽くしてくださったK先生には感謝しています。

 【退院】
 入院生活よりも、退院してからのほうがよほど大変でした。食事が満足にとれないので、間食をよくするようにして栄養を補うようにしています。果物はよく食べますが、病人にリンゴは大きすぎますね。

 病院にいるときには生きたいという目標があったけれど、いまは何を目標にしたらよいのか。目標を見失ってしまっている状態です。

 目標をもたないとだめですよね。1998年にがんになってからなんとか5年生きられた。そのことはありがたいと思っています。いまも100mくらい歩くと胸苦しくなってへたりこんでしまいます。病院までは自転車と電車を使ってきていますが、自転車は楽ですね。

 駒込病院は肺がんでは実績がありますが、今はいろいろな対処法が出てきました。でも、がんが確実に治るというような薬や治療は、ぼくが生きている間には無理なんでしょうね。

*2003年7月死去。ご冥福をお祈りします。